恐ろしい戦争と軍隊。伊那市戦争展を見聞して。

かざこしサイト
昨日は午後から伊那市創造館で伊那市戦争展があり展示物の閲覧、地元新聞社、研究者大学の先生の講義があり半日行って来ました。
 
伊那市は戦火を浴びませんでしたが、後方基地としての役割をになっていて飛行場が一つあり、二つ目の建設着手時に終戦となり中止されたそうです。
 
中島飛行機疎開先で、朝鮮の人がわんさといて労働者として働かされていて、農民としても数千人が配置され、ガソリンの代わりのエタノールの元になる芋の栽培に狩り出されていてそれは悲惨な生活を送っていたそうです。
 
中島飛行機では終戦間近になると、飛行機の材料ジュラルミンが無くなり、新聞紙などの紙を張り合わせて機体の鋼板を作っていて、多くの特攻隊員は紙の飛行機に載って突撃していったとのこと。そこでは紙を鋼板の替わりに使えるようにするために高熱になった紙を素手で引き延ばして貼り付けていくため、手がただれてもう元のようにならなくなった人が多くいて高齢者の人が実際に手を見せてくれました。(映像で)
 
天皇の軍隊、天皇の臣民、すべて天皇陛下の命によりと言うことで、農地は軍の言うままの値段で買い取られ、特攻隊員希望者も個人の希望は調べられたものの、拒否することなど出来る状況ではなかったと明日は特攻隊として出撃する予定だった軍人の証言。
 
今思うと到底考えられないような状況だったようです。貼られた資料の中には新聞も多くありましたが、大本営発表をそのまま無抵抗に報道するマスメディアの悪影響は大変大きかったと思われます。
 
発表者の中にはまだ若く学生だった人もいて、夜こっそりとアメリカの放送を聴いていて、これはアメリカの放送の方が本当だとおじいさんなどに話すと非国民だと叱られたそうですが、軍や、政府行政にたてつくことが出来ず、ただ言われるままに動かざるを得ない社会だったようで損な社会にはなって欲しくないものです。
 
インターネットが広範に利用されるようになったとは言え、新聞、ラジオ、テレビの影響は大きいですから翼賛報道を続けるマスメディアの監視は国民的な運動にしないとまたもと来た道へ突き進むと言うことになりかねません。
 
小笠原の母島に残されている軍事施設や、先日行ってきた沖縄の戦火で焼けた寺院跡などは大切に残しておき、戦争の恐ろしさを後世に伝えていかなければならない。それと天皇制が当時の精神的支柱として機能していたことを多くの若者に事実として伝えなければならないと思いました。
 
しかし日本がアメリカや連合国と戦って勝負になると当時の日本軍人はどうやって導き出したのか不思議です。